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「この務め」の性質と歴史に関する説明

T・オースティン-スパークス

初出:"A Witness and A Testimony" 雑誌 1956 年 3 月~4 月、Vol. 34-2. 原題:"An Explanation of the Nature and History of 'This Ministry'".
翻訳者:オリーブ園クリスチャン古典ライブラリー

この務めの拡大と強化に伴い、その歴史と性質に関する簡潔な声明を求める問い合わせや要求が増えつつあります。この要求はまた、この務めに関する誤解や虚偽の説明の増加によっても強まっているようです。ですから、かなりの圧力の下、心配してくださっているすべての人を助けたいという願いをもって、できるだけ短い指針としてこの説明を提供したいと思います。

「証し人と証し」誌はささやかな冊子であり、その目的は主が与えてくださる霊的食物、光、教えを一月おきに主の民に与えることです。今執筆している時点で、この小冊子は発行三十周年を迎えようとしています。とても多くの領域をこの長い期間で網羅してきたので、ここに書けるのはこの務めの主な特徴に関するごく短いあらましにすぎません。

この執筆、印刷された務めの背後には、一群れの人々がいます。この群れは小さな会衆から、かなり大きな家族に成長しました。この務めは地元に根ざすだけでなく、世界的でもあります。これまで出版されたものの大部分は、最初、メッセージの務めで与えられました。それらのメッセージは地元の会衆に向けて、あるいは、通常毎年五回開催される定期的な特別集会で語られたものです。しかし、何冊かの本は直接執筆されました。

次のことを理解していただきたいので、これを述べる必要があります。すなわち、神の民を代表する一群れの人々が抱える霊的生活に関する実際上の差し迫った必要に、すべては絶対的に応じるものでなければならないのです。事実、この務めを必要とし、それに意義を与え、それを発達させたのは、人々なのです。これは確かに神がお与えになる方法です!ですから、この務めは本に埋もれて学んだ事柄であるだけでなく、常に召しであり、生活状態に関する答えでもあります。

過去の年月の間、ページ数や形式、強調点や提示する内容は、変化、発展を遂げてきました。なぜなら、本質的基礎が真実で不動のものである限り、命と成長があるところには常に変化と発展がなければならないからです。現在のさらに豊かな光と、さらにまさった理解に適応することが、真の正当な成長には必要不可欠です。私たちは常にこの恵みを求めてきましたし、最後まで求め続けるでしょう。感謝の声は大きくなり、言い広められていますが、これについて語ることはできません。しかし、私たちが主から受けた助けについては語ることができます。そのおかげで私たちは今日まで続けることができたのです。これを言う時、私たちは声を大にして言います。なぜなら、主の助けがなければ、私たちはこの務めを終わらせようとする多くの方面からのサタンの攻撃を、おそらく切り抜けられなかったからです。また、人々の敵意はすさまじく、彼らはこの務めや私たちに反対することで、自分たちは神に奉仕していると考えていたのです。

メッセージの概要に入る前に、さらに次のことも強調したいと思います。いかなる専門的、教理的意味においても、「私たちは増殖を欲している」というのは決して真実ではありません。私たちはパウロと共に言うことができます。それは今の場合、二次的な意味にすぎませんが(つまり、聖書を通してですが)「私はそれを人から受けたのでも、教わったのでもありません。それはイエス・キリストの啓示を通して来たのです」。私たちは深刻な痛ましい経験に導かれることにより、神の御子の意義のいっそう豊かな豊富を見るようになりましたし、「暗くて辛い苦しみの中から、生ける光の新鮮な光線がことごとく生じたのです」と真に言うことができます。こうして私たちはそれを持ちます。なぜなら、何ものにもまして私たちが救われなければならないのは、経験上重要でない教えを持つことからだからです。私たちがたんなる「教え」に落ち込むことを、神は許されません!私たちは経験的真理以外の真理をこれ以上知りたいとは思いません。霊的に永遠の価値のあるものは、奉仕者がそれを生ける力として立証するとき、初めて供給することができます。私たちが他の人々を慰めることができるのは、私たち自身が神から受けた慰めをもってです。他の人々の真の助けとなるのは、助けることを願う人が自分で経験した命の力だけです。情報はそれだけでは、どれほど正確で正統的であっても、また、どれほど強い確信をもって情熱的に伝えたとしても、霊的構成に必要不可欠な属性や価値を持つことはないでしょう。ですから、神の道はこれまで常に個人的器や団体的器を興して、厳しい試練によりその器の中に彼のメッセージを造り込むことでした。その使者はそのメッセージを自分の内に持たなければならないだけでなく、自分がそのメッセージの中にいなければなりません。知性や感情の中にそのメッセージを持つだけでなく、経験や存在中にそのメッセージを持たなければならないのです。

これが命の道ですから、この特別な務めの性質と内容を述べるにあたって、私は現在の立場から過去に遡るかわりに、私たち自身の霊的歴史と成長の道のりを追うことにします。すでに述べたように、長年の間に出版されてきた様々な本は、私たちの漸進的な多くの面にわたる強調点について記したものにすぎません。そして、それらの本は私たちに対する神の取り扱い――経験上の取り扱いや光を与えるための取り扱い――の歴史を具体的に現しています。これらの本は、その時点で主の民が経験していたことや抱えていた必要がきっかけとなって出版されたものであり、「主の民に届いた」という点にのみその価値が存します。もしそのような必要性を感じていないなら、それらの本はたんなる言葉以外の何ものでもありません。

私たちは、ここで以下に述べることを「特別な啓示」と思っているわけではありませんし、私たちの経験を独特なものとみなしているわけでもありません。どうか思い違いをしないでください。「あなたたちは自分は特別な啓示を持っていると主張しています」という非難を私たちは断固として否定します。私たちが述べていることは、それ自身新しいものは何もなく、すべて神の御言葉の中に見いだせます。それらが新しいのは、啓示としての衝撃力をもって新たに当事者たちに臨んだ点であり、他の人々はずっと前に見ていたのです。務めを構成するのは教えそれ自体ではなく、あたかも啓示であるかのように私たちの上に臨む力と命なのです。ですから、ここで新しい「啓示」を見つけようとだれも期待しないでください。しかし、ここに書かれていることを――私たちがそうだったように――新しい啓示のように経験する人もいるでしょう。(この声明では複数形の「私たち」という言葉を用います。これはここにいる人々や世界中にいる人々の群れを指しており、彼らにとってこれらの事柄は真実であることを私は知っています)。

私たちは長年にわたって聖書を教え、福音を宣べ伝え、宣教を企画し、様々なクリスチャン活動を行ってきました。その後、主は私たちをご自身の効果的な方法で導いて、以前私たちが見ていなかった十字架のいっそう豊かな意味を見せてくださいました。

十字架のいっそう豊かな意味

これが開かれた天の下にある全く新しい生活の第一段階でした。その後、私たちが見ることになったように、十字架(あるいはその型である祭壇)は常に神の完全な御心を実現するための神の新しい出発点なのです。「出発点」と私たちは言います。なぜなら、カルバリはそれ自体が目的ではなく、すべての始まりだからです。十字架の客観面については、何の調整の必要もありませんでした。屠られた小羊の重大な価値はクリスチャン経験の第一段階と関係しており、神に感謝すべきことにすでにありました。この世に対する裁きからの解放、罪定めと死からの解放、やましい良心の圧政と束縛からの解放――これはみな、義なる方を信じる信仰により与えられる義のおかげです。この方はしみのないご自身を私たちのために神にささげてくださったのです。これが恵みにより私たちの取った立場でした。十字架のキリストが私たちにとっていかなる方だったのか、そして今いかなる方なのかに、私たちは錨を降ろしました。これらすべてに関する理解と感謝は常に成長し続けてきましたし、今日、かつてないほど深く、豊かに、強くなっています。

さらに、この基本的立場はサタンのやむことのない攻撃と苦々しい敵意の標的であることを、私たちはよく承知しています。これは最後までそうでしょう。信者にとってキリストがいかなる方なのかに関して、信者の立場を動揺させられれば、他のすべては駄目になって挫折することを、サタンはよく知っています。愛する方に受け入れられているかどうかわからない人が、どうして永遠に価値ある事柄で神や人の役に立てるでしょう?たとえ自分がどのような者でもキリスト・イエスにあって義と認められているという確信のない人が、どうして何らかの分野で霊的に有用になりえるでしょう?義の胸当てとこの信仰の盾をしっかりと理解して身につけない限り、邪悪な者の矢はすべて命中するでしょう。そうです、カルバリの客観的意味――十字架につけられたキリストは、信者の立場の問題に関して、筆舌に尽くしがたいほど重要です。私たちは決してこれから目を離せませんし、これを力説せずにはいられません。

しかし、この問題に注意を払って、十分に決着をつけたとしても、それはただ「エジプト」からの解放にすぎません。なぜなら、これまで述べてきたことはみな、暗闇の力の中から神の愛する御子の王国への「移行」と関係しているからです。これはエジプトで起きた力強い出来事であり、屠られた小羊と、流されて振りかけられた血のおかげでした。これには不変の要素と価値がありました。しかし、さらに大きな必要があったのです。外側の束縛は打ち砕かれました。すなわち、この世の破滅に巻き込まれることになる束縛は打ち砕かれました。他方、内なる束縛は依然として残っていました。荒野のイスラエルは、天然の命、自己の命、「肉」の支配を表しています。確かに神の民でした!確かに贖われていました!確かに王国の中にいました!確かに約束の相続人でした!しかし、彼らはあまり遠くには辿り着きませんでした。役立たずで、実を結ばない民であり、浮き沈みを繰り返し、同じ道を堂々巡りしました。そして常に生存本能の言いなりでした。時には、エジプトに戻れば良い暮らしが待っていると想像しさえしたのです。「自分は神に贖われている」と順境の時に確信していた民の、何と奇妙な矛盾した状態でしょう!この荒野の生活には、膨大なエネルギーの消費、膨大な困難な努力、膨大な願望や切望、膨大な奉仕、膨大な宗教的熱心さや活動がありました。しかし、決して目的地には到達せず、大きな円を描いて元いた所に戻って来たのです。

さて、十字架のいっそう豊かな意味が私たちのいっそう大きな必要の上に臨んだのは、そのような時でした。たんなる情報から何かをしっかりと修得することは決してできません。これは摂理の一部です。私たちが実際に真実に至る唯一の道は、「耐えられないほど圧迫される」ことによってです。ですから、主は霊的歴史を形成するのに多くの時間をかけなければならないのです。ついに私たちの目が開かれる時、「ああ、なぜこれをこれまで見ていなかったのでしょう!」と私たちは叫びます。しかし、私たちが示しを受けられるようになるには、まず他のものはすべて不十分であることが立証されなければならず、それには時間がかかるのです。こうして私たちはローマ人への手紙第六章の暗い時に導かれました。主はまるで肉声で語っておられるかのようでした、「わたしが死んだ時、あなたも死んだのです。わたしが十字架に行った時、わたしはあなたの罪を負っただけでなく、あなたをも負ったのです。わたしがあなたを負った時、わたしは罪人としてのあなたを負っただけでなく――それはあなたが自分を罪人と認めることができるようになるためでした――ありのままのあなたをすべて負ったのです。あなたの悪だけでなくあなたの善(?)、あなたの無能さだけでなくあなたの能力、そうです、あなたの根源をことごとく負ったのです。『働き人』、『説教者』、組織者としてのあなたをわたしは負ったのです!わたしの十字架の意味は、『たとえわたしのためだったとしても、あなたは自分自身では何の役にも立たず、何もできません。何がしかの価値があるものはみな、わたしからでなければならず、それは絶対的な依存と信仰の生活を意味する』ということなのです」。

この時、私たちは主ご自身の地上生涯の基本原理に気づきました。そしてその時から、これが私たちにとって普遍的法則になったのです。この原理とは、「主はご自分からは何も行わず、すべては神からだった」ということでした。

「子は父のなさることを見て行う以外に、自分からは何もすることができません。父のなさることはみな、子もそのように行うのです。」(ヨハネ五・十九)
「わたしは自分からは何もすることができません。わたしは聞くとおりに裁くのです。」(ヨハネ五・三〇)
「わたしの教えはわたしのものではなく、わたしを遣わされた方のものです。」(ヨハネ七・十六)
これが主の多くの奇妙な振る舞い――とまどいを感じるのももっともな振る舞い――の原因であることを私たちは見ました。主はある時は行動し、ある時は行動することを拒まれました。主はある時は出かけ、ある時は出かけることを拒まれました。主はある時は語り、ある時は語ることを拒まれました。後に、私たちは見るようになったのですが、これこそ御霊による生活の完全な意味であり、人々の自然な振る舞いとはかけ離れた生活、クリスチャンの自然な振る舞いからさえもかけ離れた生活です(後で詳述します)。これを見た時、この法則は基本的かつ絶対的な究極の法則になる必要がありました。この法則はクリスチャンの生活や働きに関する私たちの観念や活動とは、かけ離れたものでした。

このような啓示が圧倒的・画期的なものとなり、私たちの内に何の力もなくなるほどまでになるには、多くの空しい努力という背景が必要です。しかしその時、その啓示は偉大な意義を帯びるようになります。十字架の目的は明確に記されており、私たちはその目的をまさに自分の目的として受け入れなければなりません。それは私たちからのものがこれ以上何も入り込まなくなるためです。他方、イエスは生きておられます!これは無限の可能性を意味します。

こうして、紅海とヨルダン川は一つの十字架の二つの面にほかならないことを、私たちは見るようになりました。両方とも信者の霊的な死と復活を象徴しますが、後者はこれを別の領域にもたらします。ヨルダン川により、裁き、死、滅びからの解放から、自己からの解放へと進みます。それはよみがえったものから死んだものを実際的に分離することです。最初は私の罪であり、次に私の自己です。ヨルダン川を渡る時、イスラエル人自身の型である十二個の石からなる記念碑が川底に埋め残されました。その記念碑はまるで、パロに対する隷属が絶対的に終わったのと同じように、「荒野の自己の命は裁かれて終わった」とそれ以降認めるべきことを意味するかのようでした。次に、川底から別の十二の石が記念に取られて、カナン側の岸辺に置かれました。これは彼ら自身を示す型でした。彼らは命の新しさによみがえらされただけでなく、死んで葬られた自己から永遠に実際的に分離されたのです。これはみな、十字架につけられて復活されたキリストとの合一によります。なぜなら、祭司たちは契約の箱と血塗られた恵みの座――これは死の中におられるキリスト、しかし御血により死に勝利されたキリストの型でした――を肩にかついで流れの真ん中に立ったからです。また、最初の石の組は祭司たちの足が立ったまさにその場所に置かれたからです。

荒野で肉に従ったイスラエルとカナンで御霊に従ったイスラエルは、どちらも裁きからの解放の祝福を経験していましたが、二つの別の民のようです。私たちもそうでした。この違いは言葉では言い表せないほど大きかったのです。長年にわたり傑出したクリスチャンの働きを行ったある人は、この違いをこう描写しました――彼は最初、偉大な救いを経験しましたが、ついにこれをそれ以上に偉大なものとして経験しました。私たちはこの相違をすべてこの句に集約するつもりはありませんが、この相違のほとんどはこの一つの句で言い表すことができます――その句とは「開かれた天」です。天然の命は御霊の命を何と妨げることでしょう!自分自身の天然の命で神のために働くこと、神のために働こうとすることは、御霊の力への道を何と閉ざすことでしょう!霊的な真理を理解しようとする私たちの精神的努力や知的労苦は、聖霊による照らしへの門戸を何と閉ざすことでしょう!そうです、私たちはこれを経験してきました。しかし、神はほむべきかな。私たちは「天然の人」の除去を経験してきましたし、復活・昇天したキリストがますます御座を占めるようになられるのを経験してきたのです。

この十字架の主観的・経験的意義にまつわる二重の悲劇があります。一つの面は、主の民の多くはこれを知らないという悲劇です。そのため、彼らは生活や奉仕の中で荒野の経験に陥っています。膨大な力、出費、努力、骨折りにもかかわらず、霊的結果はあまりにも不十分です。荒野は常に制約された場所であり、感覚の地平線によって制限されていて、天然からの天的解放の無限の豊かさの成就という特徴を決して帯びていません。

他方、主の民の多くがこの十字架の意義や適用を積極的に拒絶しているという悲劇があります。十字架の主観的・経験的面を受け入れようとしない、かなり大きなクリスチャン集団があるのです。これに私たちは驚きますが、これから多くのことがわかります。「天然の」人(必ずしも再生されていない人ではありません)が神聖な事柄の領域で依然として影響力を振るっている所では、その結果として次のことが起きます。すなわち、固定化された教えの体系が形成され、視野は制限され、伝統への隷属、人への恐れが法的に強制され、「霊」から切り離された「文字」が支配して死をもたらし、霊的死、際限のない分裂、霊的高ぶりといった多くの他の不幸な状況が生じるのです。クリスチャンに関する伝統主義や律法主義に対するパウロの治療法は、「ローマ書」や「ガラテヤ書」に見られるように、十字架につけられたキリストでした。同じ治療法が、「コリント書」に見られるように、信者たちの間の痛ましい肉の行いのあらゆる結果に対して、頼みの綱として用いられました。

おそらく、人々がこの十字架の適用を拒絶するのは、それがあまりにも主観的すぎること、つまり、人々を内面に向かわせすぎることを恐れるためでしょう。確かに内省は弱さの印であり、ある種の麻痺状態に導くことがありえます――実際、内省は膨大な悪の温床となりえます。しかし、内省は十字架の主観面の誤った適用なのです。十字架の客観面の中にすでに定住して確立されている人でない限り、そのような「教え」を「負う」ことはだれにとっても危険で悲惨なことでしょう。十字架の客観面により、私たちは一度限り永遠に、キリストにあって「完全に義」と認められ、受け入れられます。それは私たちに対して完全な方であるキリストを信じる信仰を通してです。カナンにいたイスラエルは、「どれだけさらに十字架につけられなければならないのか」と病的な内省に取り憑かれて、自分のことしか考えない民を表しているのではありません。彼らは自由でした。主の働きに従事するために自由だったのです。「ヨルダン川」は「紅海」の面を自己の命の領域の中に持ち込むものであり、自己からの解放を意味します。依然として自己の磔殺に熱中することは、十字架に反する行為にほかなりません。しかし、「ヨルダン川」は一大転機です。それはいつまでも適用されるものであり、段階的に成就されるものです。

この転機は、ヤコブの腿の筋に触れたあの接触のようです。天然の力は確かに永遠に損なわれ、「ヤコブ」は最後の日までこの否定の印を身に帯びます。最後の日、ヤコブは依然として「杖の頭に寄りかかって」いるでしょう。その効力は段階的に現され、自分にはできないこと、自分ですることが許されていないことがどれほどあるのか、ますますわかるようになります。それは根本的に十字架が禁じるためです。これはパウロを導いた所にまで私たちを導くでしょう。パウロは比類ない経験について述べました:

「私たちは極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みさえ失いました(この『望みを失った』とは『命が助かる道はないように思われた』ということです)。」「実に、私たちは自分自身の内に死の宣告を持ちました。それは私たちが自分自身に頼るのではなく、死人をよみがえらせてくださる神に頼るようになるためでした。」(二コリント一・八、九)
ここの十字架の働きは主観的・客観的事柄であり、私たちの立場や受容とは関係なく、むしろキリストの豊富と関係があります。「この転機、過程の重要性をクリスチャンに強調しなければならない」という理由で、多くの人はそれが間違った領域に入り込むのを許してしまい、「エジプトの」隷属に逆戻りする寸前の所まで行ってしまいました。もし主が私たちをカデシ・バルネアの絶望に導き、その後、ローマ六章やガラテヤ二章二〇節を示されるなら、私たちは自分自身について「キリストと共に死んだ」という立場を受け入れなければなりません。それは、私たちが自分の罪に対してそうしたのとまさに同じようにです。また、私たちは主を信じる信仰により、次のことを理解しなければなりません。第一に、私たちがこれを直ちに理解してもしなくても、これは事実である、ということです。次に、主はこの新しい立場の何たるかとその意味を啓示する道により私たちを導いてくださる、ということです。この「死」には私たちの思いを遙かに超えるものが含まれていたことを、私たちは間違いなく発見するでしょう。しかし、この新しい立場は黙従することを可能にします。

すでに述べたように、この「ヨルダン川」の十字架経験は転機です――これは何という転機でしょう!これは一つの領域の終わりであるだけでなく、新しい領域が開かれてその中に入ることでもあります。ですから、これはイスラエルにとってそうだったように、私たちにとってもそうでした。この経験を通して、私たちは霊の命、光、自由という壮大な天空の中に入ったのです。しかしその時、いくつかの重要な事柄が見えるようになり始めました。もちろん、その第一のものは御霊による生活でした。

御霊による生活

「これ以前は、御霊を知ることも、経験することもなかった」というわけではありません。イスラエルの場合、エジプトからの解放と荒野における統治は、雲と火の柱によりました。ですから、私たちはこの統治と恵みを経験していました。しかし、ヨルダン川はこれをさらに発展させたのです。ヨシュアは永遠に、神の完全な御心に関する聖霊の力の型として立ちます。この力は人自身の貧弱で実を結ばない力を征服します。

私たちにとって、これには明確な主観的意味がありました。その意味とは、御霊の剣、刀が「魂と霊を真っ二つに切り離す」ということでした。私たちは次の事実を認識するようになりました。すなわち、魂と霊は別々のものであり、後者を通して聖霊は神の御旨をすべて実現されるのです。魂は、知性、意志、感情、力を持つ私たち自身です。聖霊が宿っているのは私たちの魂や私たち自身の中ではなく、私たちの霊の中です。そして、この新しくされて聖霊が宿っている霊は、神聖な知識、目的、力を持つ器官です。この区別がなされる時はじめて、御霊による生活が可能になります。私たちはこの区別の基礎を「人とは何者か」という題名の本の中で取り扱いました。ここでの私たちの目的は、霊的成長の諸々の段階を示すことだけです。次に、御霊によるこの生活は、霊的知識と理解力の新たな領域を意味します。この新たな領域は大多数の人に対して閉ざされており、大多数のクリスチャンに対してすら閉ざされています。それは、死と復活によるキリストとの合一が天然の人、天然的な構成の人に対して持つ意味を、彼らが知らないからです。このような人々は、あらゆる事で聖書の与える情報を持っているかもしれませんし、それらの事柄を教えさえするかもしれません――私たちもそうでした。しかし、それと真理の生ける力にあずかることとの間には、命と死ほどの違いがあるのです。ですから、御霊による生活は別の命、別の知識、別の力、別の能力を意味するのです。

次に、この新しい領域のこれらの顕著な特徴の中から、すぐさま目に飛び込んできたのは、「その時以降、生活は『天上の』生活になった」という包括的事実でした。これは抽象的な根拠のないものではありませんでした。これは私たちをきわめて現実的な諸問題に巻き込んだのです。

再び、イスラエルの歴史が霊的に繰り返されました。彼らの場合、彼らは成長していきましたし、ヨシュアですらそうでした。確かに彼は聖霊の力を表しましたし、表し続けました。しかし今、別の特徴が現れたのです。その特徴は特に新しい場所と関係していました。この特徴は次のように描写されています。

「ヨシュアがエリコの近くにいた時のことであった。彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持ち、こちらに向かって立っていた。そこでヨシュアはその人のところに行って言った、『あなたは私たちの味方ですか、それとも、私たちの敵の味方なのですか?』。彼は言った、『いや、わたしは主の軍の将として今きたのです』。ヨシュアは地にひれ伏して拝して言った、『わが主は何をしもべに告げようとされるのでしょう?』。主の軍の将はヨシュアに言った、『あなたの足から靴を脱ぎなさい。あなたが立っている所は聖なる場所だからです』。ヨシュアは言われたとおりにした。」(ヨシュア五・十三~十五)
この時導入されたこの新たな特徴とは、霊的戦いにおける天の至高の頭首権という特徴です。「主の軍」、「将」、「抜き身の剣」は、とても意義深い言葉です。これが意味するのは、聖霊はたんなる抽象的な個別の力ではなく、名ばかりの方でもない、ということです。聖霊とその力は、主権と御座に関係しており、またその僕なのです。主イエスは天の大能者の右手に上げられました。彼の敵が彼の足の足台とされるまで、彼はその場所にとどまられます。天においても、地においても、すべての権威が彼に与えられています。悪の強力な支配層が天上を占拠しており、神の御子の天の王国に対して無数の方法で戦いをしかけています。次のパウロの描写は有名です。

「支配者たち(中略)主権者たち(中略)この暗闇の世の支配者たち(中略)天上にいる邪悪な霊の軍勢」(エペソ六・十二)
聖霊がここにおられるのは、この悪の力と知性の体系を滅ぼして追い出すこととまさに関係しています。聖霊と神の御子は神格において一つであり、それゆえ神聖なパースンにおいて一つであり、聖霊は主の軍の将であるキリストとしてここにおられます。聖霊は「すべての権威」、御座の大能の力です。聖霊は神の民を導き、神の御旨に敵対する霊的な敵対者たちに対して神の民を力づけてくださいます。

このように、私たちが自己の命に関する十字架のいっそう豊かな意味を知ってから間もなく、「御霊による生活は天上の生活であり、天上の生活は統治と支配の生活を意味する」というこの偉大な事実が私たちの上に臨みました。またもや、これは戦いの生活です。しかし、この領域、この働きの場合、この戦いは御座に嘆願することではなく、御座から活動して機能することです。この戦いは、この御座を敵の要塞や策略の上に適用することなのです。

主がご自身の天的秩序に属するものを生ける方法でもたらされる時は常に、それが最初のものであれ、回復の働きによるものであれ、主はそれを行う時、それが主ご自身からであることを人が決して忘れないような明らかな印をお与えになります。私たちの場合、これが私たちの上に臨んだ時、その印があまりにも明確でおびただしかったため、私たちは一時期驚きに包まれた状態にありました。御座の衝撃力が――祈りを通して――敵の関与がきわめて明確なあらゆる種類の状況の上に適用された結果、そうした状況は取り除かれたのです。今、私たちが関心を寄せているのは霊的な諸原則であって、実例ではありません。長年にわたって、私たちは多くの霊的学課を学んできました。そして、戦いはますます深い領域に進み、ますます表層を離れて、生きるか死ぬかの究極的な霊的大問題に向かいつつあります。しかし、真理と原則は同じままです。私たちは、宇宙におけるキリストの絶対的な主権を積極的に証ししつつ、そこにとどまります。

しかし、私たちは依然として神の御心をさらに学ばなければなりませんでした。ですから、聖書にしたがって、主がさらに進んだ事柄を私たちの上に臨ませてくださるのを、私たちは経験しました。一つ一つの新しい歩みには、過去の事柄が含まれていただけでなく、さらに進んだ事柄が伴っていました。私たち自身が次に導かれて、その霊的価値と意義を経験したのは、キリストのからだである教会の天的性質、召命、定めでした。

キリストのからだである教会の
天的性質、召命、定め

主が十字架のいっそう深い働きを通して私たちの内になさったことは、特に、霊の中で宗教的事柄の地的な面から奇妙にも引き離されるという結果になりました。私たちは自分たちが霊的に、形式や組織から引き上げられるのを経験し、地上の人々の間で知れ渡っているキリスト教の肩書き、称号、分裂、体制から引き上げられるのを経験しました。そして、私たちは差別せずに「すべての聖徒」に関心を寄せるようになりました。しかし、主は御手をもって私たちをきわめて明確に導かれ、積極的な方法で主の御業の意味を示してくださいました。これがどれほど徹頭徹尾御言葉に沿ったものなのか、後に私たちは見るようになりました。祭壇は常に神の家に導きます。これは、カルバリは教会に導く、という事実を指し示しています。祭壇が据えられない限り、教会はありえません。しかし、祭壇――十字架――の目的はまさに教会なのです。ですから、キリストのからだである教会の現実が私たちに開かれ、ますます明らかに、ますます豊かになっていきました。

第一に、キリストの高揚と統治は、たんなる主ご自身の個人的事柄ではない、という事実があります。最終的にサタンとその軍勢が天上から追い出されて投げ落とされる時、それは主権を持つかしらであるキリストと一つである教会を通して、教会によってなされます。そして、教会――かしらとその肢体たち――が、この敵のいなくなった王国で座に着き、敵が神の宇宙の中で横取りして悪用していた支配権を行使します。主イエスはこの来るべき時代、ご自身の教会を通して統治・支配されます。

次に、この包括的御旨と完全に一致するものとして、他のいくつかの点が明らかになりました。

教会こそ、今の経綸における主の主要な関心事なのです。主の御心と活動は、すべて教会と関係しています。これは特に次のことを意味します。すなわち、孤立・独立しているもの、たんなる個人の、部分的かつ排他的で、分離しているものはみな、神の完全な御旨に達することができず、ある程度までしか主の証印を得られないのです。そのようなものはみな必然的に、完成に至ることなく、霊的に制限されます。神の供給はすべて、からだを保護して完成するためであり、個々人はそれとの関連で豊かさにあずかることしかできません。これが事実となる時、他の事柄がこれに続きます。

教会は地的立場ではなく、天的立場に立たなければなりません。地的立場は何らかの齟齬を生じさせます。地位、権益、係累、称号といった地的立場に立つものはみな、もしそれが主の民の間に区別を設けるものなら、キリストのからだである教会と矛盾しています。これらのものはどれも天上では通用しません。それらが地上に存在することは、天上にいる悪の霊の軍勢の面前で霊的弱さをさらすことを意味します。次の事柄が私たちの上に臨み、ますます明確に、ますます強まっていきました。すなわち、この光に従うには、党派的立場や分派的立場をすべて捨てなければならないのです――実に、再生されたすべての神の子どもたちの間におけるキリストの普遍的立場以外の立場を、すべて捨てなければならなかったのです――そして、人が造った障害物をすべて崩して、この立場、このような人たちはみな「キリストにある一人の新しい人」であるという立場を取らなければなりませんでした。この確かな事実の上に誠実に立つ以上、どうして何らかの歴史的なキリスト教の党派に「加わる」よう、人々に求められるでしょう?なぜなら、教会は歴史的なものではなく永遠のものであり、神の永遠の御旨から発して「代々の時代」に至るまで続くものだからです。

この立場の変化により、私たちは直ちに誤解、勘違い、誤報、追放、「悪評」にさらされるようになり、「あらゆる場所で反対を受ける」ようになりました。最初に、「あなたたちが取っている道は、その同じ道を取らない他のすべての人々を誤りとする道である」と言われました。そのせいで私たちは貴重な友人たちを失いました。このような物言いは、もちろん、困難を免れるための、皮相的な安っぽい言い訳にすぎません。なぜなら、伝統や一般常識にそぐわない人や物事にも、同じことが言えるからです。これはどの分野でもそうであり、主とその使徒たちに関する分野に限ったことではありません。

長年にわたり、私たちは沈黙を守り、説明を拒んできました。そのような道が言い訳や自己弁護のように思われないようにするためです。

時がたち、この務めが広範に広まり、私たちが知れ渡るようになるにつれて、この誤解はますます大きく、強くなっていきました。そこで、友人たちの要請や現在の必要に応じる形で、私たちはここで少なくともその立場を明らかにしようとしているのです。そして、できることなら、ある人々が下した間違った結論を正そうとしているのです。それは、彼らが真の状況を把握できていないからです。あるいは、私たち自身がある問題について述べたとき、その言い方がまずかったためかもしれません。

そこで、私たちは教会のこの問題に戻り、それを追うことにします。私たちの本の中のある特定の段落を全体の文脈や直近の文脈から抜き出すなら、私たちの真意とは正反対の意味になってしまうかもしれません。第一に、私たちはこれまで常に、何かを述べる時はその根拠として比較を用いてきました。つまり、私たちはこれまで常に、「神が完全な道を得た場合、神が獲得されるであろうもの」との比較・対比で問題を扱ってきたのです。「キリスト教の状況は神の願いどおりのものである」と強く主張する人はほとんどいないでしょう。もし神が御心を表明しておられたなら、多くのクリスチャン指導者が「我々の不幸な分裂」と称しているもの、「世界教会協議会」が「人の造りし分裂」と称しているものは、存在していなかったでしょう。

私たちは、「この状況は間違っており、神の御心にしたがっていない」と明言してきました。そして、「これらの宗派的分裂は霊的豊かさに対する脅威であり、神の完全な御旨の妨げである」と言ってきましたし、今もそう言います。これらの宗派的分裂は、実際上の霊的制約を意味します。私たちは信じていますが、霊的生活が低調で貧弱な水準でなければ、この状況は決して生じていなかったでしょう。満潮の時、区切る「防波堤」は姿を消し、無意味になります。干潮の時、防波堤はそびえ立ちます。天然のものと霊のものとの相違は、一方は防波堤を必要とし、他方はその悲劇を明らかにすることです。何らかの理由――福音活動や、霊的生活に関する集会――で潮が満ちる時、私たちは暫くのあいだ分裂を忘れます。キリストがすべてを支配する方となられる時、「事物」はその重要性を失います。「これは当たり前のものになるべきであって、特別なものであってはならない」と私たちは述べてきました。

しかし、私たちはこれを述べてきましたし、この類のことに関して述べうる限りのことを述べてきましたが、説明を要する点がいくつか残っています。その大部分は、教会の体制の問題に分類されるものであり、それに由来するものです。

前に述べたように、この務めの背後にはロンドンのオノ・オークに定期的に集う主の民の一団が控えており、この務めの大部分はその一団のためにその一団の中でなされています。私たちは信じていますが、集会、手続き、務めの「体制」は、私たちの現在の光が許す限り、使徒たちが立てようとした体制に近いものです。私たちは「すでに達した」とは主張しませんし、「すでに完全にされている」と自分自身を見なすこともしません。しかし、私たちは主に対して開いており、聖霊のさらなるいかなる導きにも順応できます。しかし、ここでまた、私たちにとって非常に重要な問題が生じます。とはいえ、この問題は別の違いを生じさせもしたのです。

私たちは地上に見られる模範には決して従いませんでした。私たちは犯罪的に無知であって、おめでたい盲人だったのか、あるいは、天の配剤により純真だったかの、いずれかです。しかし、私たちはすでに広まっているのと同じ体制を知ろうとはしませんでした。私たちに関する限り、まるで主は私たちと共にゼロから始めておられるかのようでした。私たちは、新約の教会とその体制を定式化しようとする目論見をもって新約聖書を学ぶこともしませんでした。それ以来、「複製・模倣すべき完全な決定的模範を、新約聖書は与えていない」と私たちは信じるようになりました。

こうして、私たちは組織化されたキリスト教の以前の組織をすべて取り除き、私たち自身を有機的原則に委ねました。いかなる「体制」も「設立」せず、いかなる役員も奉仕者も任命しませんでした。私たちは、誰が監督や務めのために主によって選ばれた人なのか、主が「賜物」と油注ぎによって明らかにされるのに委ねました。一人の人による独裁的な務めは決して現れませんでした。「監督たち」を選ぶ際、投票や選挙で選んだことはありませんし、指導者が表明した願望によって選ぶことも決してありませんでした。この働きのいかなる部門にも、委員会や役員の団体が存在したためしはありません。重要な事柄は祈りから生じました。私たちは間違いを犯してきたことを十分意識していますが、そうした間違いの結果、上述した諸々の原則を再強調するのに役立ったのです。

浸礼による信者のバプテスマが、それによって死と復活におけるキリストとの合一を心から適切に証しするための、唯一の道として明らかになりました。主の食卓はクリスチャンの証しの集大成と見なされるようになりました。主の食卓は、私たちのためにキリストが死なれたことの証しであり、私たちがキリストにあって死んだことの証しであり、キリストの中に、キリストと共にある信者はみな、「一つパン」として一つであることの証しであり、キリストの再来という「祝福された望み」の証しなのです。

私たちはまた、「キリストのからだの一を証しする御霊の方法は、教会の代表者たち(長老たち)が『手を上に置く』という単純な行為によるのであり、新しくバプテスマされた人の場合は特にそうである」と感じています。これに関して聖書の意図はこうである、と私たちは信じています。

「教会」の団体や関係の問題に戻ると、二つの点を強調したいと思います。一つは、たとえ神の最上の完全な御旨ではないと私たちが信じているものであっても、私たちはそれらすべてに対する神の主権を心から認める、ということです。「分派」や宗派、「伝道団」や協会は、聖霊の当初の道や意図からの逸脱です。しかし、神は明らかにこれらを非常に現実的な方法で祝福して用いてこられましたし、主権をもって忠信な男女を通して偉大な働きをなさいました。私たちはこれを神に感謝し、用いられうるすべての方法の上に神の祝福があるよう祈ります。こう述べるのは、決して優越感に浸っているわけではありません。断じてそうではありません。私たちが賛同を控える場合、それはただ次の理由によります。すなわち、私たちは教会生活の初期の頃、最上の完全な立場から逸れていたせいで、かなりの遅延、制限、弱さを経験したと感じているからであり、最上の完全な立場に戻りたいという心からの願いがあるからなのです。主が容認しえない現在の「無秩序」を、私たちは一つたりとも受け入れられません。そのため、「反動主義者」と私たちを非難する人もいるかもしれません。

二番目の点は、すべては人からではなく、主から御霊により発しなければならない、と私たちは固く信じているため、人々に自分の「教会」、「伝道団」、関わりから離れるよう助言したり、感化したりすることは決してできなかった、ということです。私たちは決してそのようなことをしませんでしたし、そうすることを注意深く避けてきました。そうさせることが私たちの狙いである、と誤解して、そうした人もいます。他の人々は主の御前で熟慮した上で行動しました。「この問題は霊的生活に関わるものでなければならず、神と共なる歩み以外の結果に終わってはならない」と私たちは強く感じています。この同じ原則に基づいて、「他の場所に教会を建てて、この霊的『体制』を複製・再生産するよう努めることが自分たちの仕事である」と思ったことも決してありません。そうするのは容易だったでしょうが、私たちは差し控えました。私たちは信じていますが、諸教会は御霊の働きの自然な結果でなければならず、個々の信者が上から生まれるのと同じように、「生まれる」べきものなのです。この問題について、私たちはさらに明るい光とさらなる導きが必要なのかもしれませんが、これが現在に至るまで私たちが見てきたことです。

もう一つ他の点にも注意していただく必要があります。確かに私たちはこれまで常に、「この務めが興された主な目的は、主の民が主の働きをより効果的に行えるよう、彼らを養い、教え、助けることである」と信じてきました。これは正しかったことが証明されましたし、主は素晴らしい方法でこの目的を果たすことを可能にし、供給してくださいました。しかし、次のことをはっきりと理解していただきたいのですが、教会の任務の大部分を占める重要な任務は、キリストを救われていない人にもたらすことなのです。もし救われていない人がこの務めを通して私たちの間で「王国の中に」継続的にもたらされていないなら、私たちは大いに悩むべきですし、その理由を示してくださるよう主に熱心に求めるべきです。ですから、私たちは確固たる方法や手段を用いて、本国にいる時も、よその土地にいる時も、魂を救い主にもたらそうとしています。これまでの年月、多くの人がこの特別な重荷を心に負って、私たちの間から世界の多くの場所に出て行きました。しかし、そうではあっても、伝道は副次的なものであり、それ自体が目的ではありません。繰り返しますが、教会こそ現経綸における主の主要な包括的関心事なのです。

時がたつにつれて、思いがけないことに、ますます神の一つの御旨――キリストの豊満――に満たされるようになるのを、私たちは経験しました。そして、務めはあらゆる面でこれを焦点とするようになりました。「キリストにあって万物を一つにするためである」という句には、何と途方もない広がりと豊かさがあるのでしょう!そうです、大切なのはキリストとその豊満です!キリストを正しく理解するとき、私たちはあらゆる狭量さ、地的束縛、一過性の奉仕から解放されます。

この務めには、誤解を生んできた他の面もあります。しかし、ここに記したことから――少なくとも――次のことはわかっていただけると私は信じています。すなわち、無意味に思われることにも意味があるのであり、真理を求めるすべての人にとって決して枝葉末節ではない重要な意味があるのです。

まとめると、私たちはとても強くこう確信しています。すなわち、神の御言葉が終始一貫して示しているように、神は当初の御心に相当するものを最後には獲得されるのです。「初めの愛」、「初めの働き」、「最初」に戻るようにという呼びかけが常にあります。イスラエルの場合、これが預言者たちの明らかな負担です。使徒たちは、世を去る前、最初の原則を再び強調して、逸脱について警告することを余儀なくされました。これは確かに、彼らの書き物の大部分を占めている負担です。ヨハネの手紙や黙示録の第一章を読む時、この意味を見落とすことはありえません。主は決して、最初の立場や啓示された完全な御心を最終的に放棄するようなことはなさいません。主は主権をもって、すべてのものを可能な限り用いることができます。しかし、それで得られるものが主の御心として示されたものとは異なる場合、あるいはそれに達しない場合、そこには常に厳しい制限や弱さがあるでしょう。

このような制限は熟考を要するものであり、私たちを真剣な探求に導きます。今この時、このような課題や懸念の存在を示唆する多くの印が事実存在する、と私たちは信じています。聖書を私たちの手引き書とするとき、また教会史を真剣にとらえるとき、この両者は一つのことを明らかにします。すなわち、たとえ主が劣ったものをいかに長く耐え忍び、それを用いられたとしても、主はついには絶対的なものを推進されるのです。それは、苦しみ、篩い分け、打ち倒しによってであり、本質的なもの、霊的なもの、純粋なもの、完全なものへと強制的に導くことによってです。これが中国が教える偉大な教訓であり、それは――ついには――遙か彼方まで及ぶでしょう。キリストの豊満、神の完全な寸分たがわぬ御心、御霊の真の道――これらは究極的には選択自由なものではありません。その正しさが証明されるには、大きな試みと篩い分けの時が必要かもしれませんが、証明される時が必ず来るでしょう。それは、エレミヤ、パウロ、他の人々と同じであり、また、私たちと同時代のある人々と同じです。

上述したことは私たちの証しにほかなりません。これを示すのは信仰箇条や「原則と実行」としてではありません。私たちはこれを見習うよう人に求めませんし、交わりの基準にもしません。神の御霊は、偏見のない開かれた心の真実さを証ししてくださるにちがいありません。私たちはそれで十分満足です。


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