十月四日
いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それ は、イエスのいのちが私たちの身において明らかに 示されるためです。(第二コリント四・十)
私たちの体にとって、復活したキリストには、大きな価値 があります。主のよみがえりのいのちは、この身体に活 力を与えてくれます。それは、今のこの身体を主の栄光 の体と同じ姿に変えるためではなく、奉仕へと向かわせ るためです。死に定められたこの体のために、よみがえ りのいのちがありますが、このいのちをどのように用い、 選択し、役立てるかは慎重に考えて、決めなければなり ません。病にあって、弱められていると感じるとき、座り 込んでこんなふうに言っても、意味のないことです、『あ あ、主よ、早く来て、私を救い上げ、そして、しっかりと立 たせて、回復させてください!』主は決して、そのように はされません。
私は知っています。弱さに絶望し、肉体的にも痛めつけ られ、自分では何もできないところで、主が何かのかた ちで介入される場合、いつも、私に主ご自身をしっかり理 解させることから始まりました。主は、前触れもなくやっ てきて、自分は満たされている、隅々まで主のいのちが 行き渡っている、そして、すぐに立ち上がれると感じさせ てくれたことは一度もありません。主が、耳に聴こえる声 ではなく、同じくらい心地よい勧めとはげましのことばで、 『主のいのちをつかみなさい。あなたのいのちとして、主 であるわたしを握りしめなさい!』と言われた瞬間が何 度もありました。言葉には出さなくても、心に示されたこと には、同じ意味がありました。すなわち、今の状態を拒 絶し、キリストにいのちを託すときだったのです!そし て、その目的は、主に仕える時間をさらに続けていくこと でした。
主は、私たちを機械仕掛けの人形のように動かすことは なく、主のよみがえりのいのちを土台として、私たちがご 自身と協力するように取り計らってくれます。よみがえら れたキリストの大きな価値は、私たちが主のよみがえり のいのちを、注意深く、しっかりと理解することによって 見いだされます。つまり、これは、からだであれ、魂や霊 であれ、その全てにおいてアダムを拒絶し、そして、必要 なものが何でなんであろうと、キリストに立ちなさいという ことです。それは、霊のためですか?頭のためですか? 心のためですか?意思のためですか?体のためです か?ただひとつ、欠けてはならないことは、今の状況の ために、キリストの内に堅くと立つことです。・・・・キリスト の存在と広大さの全てを経験するためには、自分の中 に主のよみがえりのいのちがあること、私たちがそのい のちを握り締め、その上に立つことがどうしても必要で す。主よ、それが何か意味するのか、もっとはっきりと示 してください。
オースチン-スパークス. 元のタイトル
The Risen Lord and the Things Which Cannot be Shaken - Chapter 3