十月八日
大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだ であり、ひとりひとり互いに器官なのです。(ローマ十 二・五)
ここにある『からだ』ということば、用語は、単なる比喩で はありません。主のみからだの各部分のキリストに取っ ての存在意義は、私たちの肉体の自我に取っての意味 と同じです――すなわち、それは、自分を現し、思いを表 現し、また、何かを伝える手段なのです。この真理は、何 よりも際立っていて、生活と奉仕のすべての問題の根源 にまで至るものです。『主のために働くこと』、『主に祈る こと』などには、その効果の大きさを左右する、より深い 法則があることが分かります。
私たちは、キリストのための仕事――キリスト者の団体 を計画し、枠組みを作り、立案し、組織し、また、着手す ること――を引き受けた上で、そこに、神の証印と祝福を 与えるように命じることなどできません。私たちが心の傾 くままに祈ったからといって、たとえ、その祈りが、情熱 や涙から生じたものであっても、神が応えてくれるという 保証などありません。この事実に気付かない大勢の 人々が、自分の熱心な働きが認められず、祈りにも応え がないといって、絶望へと引き込まれてしまいます。御自 身が現実に生きた生活の法則を説明する中で、主がは っきりと強調されているのは、主が語られたことば、主が なされた働きは、ご自身のもの(主ご自身から出たもの) ではなく、その言葉を語られたのも、その働きをされたの も御父であったという事実です。
そのゆえ、ご自身の将来の働きのために、主は、弟子た ちが主に留まるようにと祈りました。ですから、成果があ って実を結ぶ生活、奉仕、祈りなどを行うための法則と は、私たちが主のすることだけを行う――しかし、必ず行 う――という一致が存在することです。私たちは、キリス トがしていることは何か、それをどのようにされているの か、主が用いられる手段、そして、それを実行される時 間を自分の霊の中で知らなければなりません。それに加 え、私たちの祈りも、私たちの中で、私たちを通して、御 霊によって祈られる主ご自身の祈りでなければなりませ ん。このことが、使徒の時代の教会が生きていた領域で あることを明確に示します。このためには、イエスの名に おいて行われる全ての働きを、ふるいにかけることが必 要であり、また、主の考えが明白に示されるまで、何もし ないことが要求されます。しかし、これによって、百パー セントの効果があること、そして、そこで決着したことが いつまでも続くことが確実になるのです。この時代にお ける神の現実的な目的のために、キリストは、かしらなる 主としっかり結び合わされたひとつのからだとなってお り、その各部分に求められる課題とは、この統合の意味 とこの集まりをひとつにしている特質をより完全に理解 することです。・・・・私たちから見れば、それは、自分が 完全にキリストの中にいて、御霊によって生きていると知 ることです。そうすれば、他のことは全て、後からついて きます。
オースチン-スパークス. 元のタイトル
In Christ - Chapter 1