十月九日
あなたがたは、互いに罪を言い表わし、互いのため に祈りなさい。いやされるためです。義人の祈りは働 くと、大きな力があります。(ヤコブ五・十六)
キリスト者としての生活において、私たちが主の御心に 自分を合わせなければならない場面が数多くあります。 主の御心とは、私たちの肉にとって必ずしも易しいことば かりではなく、何か特定の問題で、主の御心に合わせる ために、必死で闘わなくてはならないことが、非常に多く あります。そして、祈りとはこのように御心に自分を合わ せるための時間です。今夜、ここに集っている皆さんの 中にも、何かのことで神の御心と闘っている方もいるか もしれません。そう、今こそ、その問題に片をつけるべき 時です。祈りの時間は、あらゆることで神の御心と完全 に一致する大きな機会を与えてくれるものです。・・・・
真の祈りとは、告白と屈辱の祈りです!真の祈りとは、 主への全面的な引き渡しと明け渡しと服従の時間で す!真の祈りは、全てのことで、神の御心と完璧な一致 を見るため時間です!さて、これらの三つを私たちは、 後ろ向きなことがらと呼ぶこともできます。もちろん、私た ちがこの三つと正面から向かい合わなければならないと きには、後ろ向きではなく、とても前向きなことになりま す。しかし、四つ目のことになると、ちょっと様子が異なり ます。パウロの場合、この初めての祈りの時間は、深い 礼拝の時だったと、私は信じています。礼拝はどこから 生まれるのでしょう?私たちを礼拝へと導くものとは何で しょう?礼拝の真の性質と精神とは何でしょう?それは、 神の恵みに対する深く、言葉にできない感謝ではないで しょうか?私たちはただ、自分がどれだけ神の恵みに感 謝しているか、その計りによって礼拝します。・・・・パウロ が好んだ手紙の書きだしは、次の三つの言葉であったこ とを思い出してください、『恵み、憐れみ、そして平安があ なたにありますように。』これがパウロにとってすべての 基礎でした。すばらしい恵み、言葉では説明できない恵 み、限りないあわれみ、そして、神との平安。これが、祈 りのあいだ、間違いなくこの男が意識していたことでし た。それは、神の恵みを願う深い礼拝の祈りだったので あり、あらゆる真の祈りの中には、同じことが置かれてい なければならないのです。
オースチン-スパークス. 元のタイトル
“That They May All Be One, Even As We Are One” - Meeting 41